「ひま~。」の正体
子どもたちの中には「ひま~。」と言う子がいます。
「なにかしたいことはない?」と聞いても「とくにない。」と言います。
この子の欲求は単純です。自分を心地よく楽しませてほしいのです。そして、誰かにこの欲求を満たしてもらうことを期待しているのでしょう。
ですので、この子を満たしてあげようと思ったら何かを与えてあげればよいのです。ゲームやスマートフォンは手っ取り早くこの欲求を満たしてくれるでしょう。ただ、ゲームやスマートフォンを与えるということが一概にダメだと言いたいわけではありません。そういった自分以外のものに満たしてもらうという時間も、もしかしたら人間にとって必要な時間かもしれないからです。
ただ、自分以外のものでしか自分を満たすことができなくなってしまうというのは恐ろしいことだと思います。僕は楽しくない、今がつまらないという原因を自分ではない誰かや何かに追求しようとする姿勢はお門違いな気がします。自分自身の人生と時間をどう使うのかというのは、これはその人自身の課題であり向き合わなければいけないことだと思います。さらに言うと、どれだけその子と近しい人であっても、その子の人生を代わりに歩くこともできなければ暇を満たして充実させることは不可能ではないでしょうか。一時の退屈感はしのぐことができたとしても、いつか一人で立たなければいけないときは必ずきます。
さらに運がいいのか悪いのか、退屈なときや困ったときどうしたらいいのかわからないときなどに、周りの人がその人の代わりに考え導いてくれる環境に置かれ続けてしまうと、これはもう自分の人生を生きているとは到底言えないような気がします。しかし、そんな環境におかれて育った子でもいつかは自分で立たなければいけない日が来ます。これまで、自分の人生を自分で歩いてこなかったその子はどうなるのでしょう。自分の中の何を信じて、自分のこれからの人生をどうやって歩いて行くのでしょう。
「どうしたらいいかわかんない。」「やりたいことなんてない。」と言うのは当然のことであると思います。
しかし、与えるというのはその人を大切に思うが故の行為であるといことも往々にしてあります。
あなたが心配だから、辛そうだから、困っていそうだから、幸せになってほしいから、なんとかしてあげようという一心での行為ではないでしょうか。その気持ちはとても素敵で大切にしたいことです。しかしその結果、本来もっている自分の人生を歩いて行くことができる力を挫いてしまうという結果に繋がってしまうということもあるのではないかと思うのです。
与えるという行為の裏には、与える側の人の不安感というものが隠れています。その不安感に僕自身もよくとりつかれますが、「子ども達は大丈夫。」と信頼することがその子が自立するための一歩目になると思っています。