サイレントマジョリティ
どんな集団でも、目立つ子には意識が向きやすいものです。自己主張がはっきりしていて論理的な回答もでき明朗な集団の中心にいるような子は、一目置かれやすいのではないでしょうか。さらに、周りの子に比べるとやんちゃで、大人からすると手がかかると思われている子も同様に周囲の子どもや大人から意識が向けられやすいと思います。「手のかかる子ほどかわいい」という言葉も、その子に費やさざるを得なかった時間と精神の積み重ねが故ではないでしょうか。実際、自分自身が学生時代の頃を思い返してみると、目立つ子には周りの子や大人の関心は高かったのかなと思います。
ところで、みなさんは小学校中学校高校とどんなことを考え、どんな振る舞いをしていたか覚えていますか。
僕は小学校は大好きでした。地元の公立小学校に通っていたのですが、嫌なこともあったことにはありましたが小学校は僕にとって楽な場所でした。それよりも、習っていたサッカースクールが厳しくて怖くて、おそるおそるプレーしていました。ですので、当時は土日のサッカーをする日が緊張であり、平日の学校は緩和でした。
中学校で初めて、人との関係や自分自身のことでとても悩みました。自分を他者の前でどう振る舞っていいのか全くわからなくなったのです。けれども、それを周囲の友達や大人に悟られることをとても恥ずかしいことだと感じ、表現することはできませんでした。おそらく周囲の子や先生にも僕の葛藤はばれずに、上手に過ごすことができていたと思います。
この経験によって、中学生以降の人生の足を大きく引っ張られることになりました。自分のしたいことや、自分はどうありたいのかということではなく、常に周りの目や評価を気にして歩む日々を過ごしました。このころは、人に嫌われることが非常に怖かったように覚えています。
ざっくりとですが、このような学生時代を送っていました。もしやりなおすことができるなら、もう一度中学生に戻っておもいっきりそのときの時間を一生懸命に生きたいなと時々思うほどに、悔いが残っていることが多いです。
おそらくですが、僕のようなタイプは学生時代あまり目立つようなタイプでもなかったので、周囲からの関心も高くなかったのではないかなと思います。そして集団というのは、僕のようなあまり目立つようなタイプではない子の方が多数派でしょう。一クラスが40人近い学級であると、目立つ子に意識が向いてしまうことは仕方がないことだと思います。
しかし、悩みも葛藤もなく日々充足しているから目立たない多数派になっているのかといえば決してそんなことはないと思います。表現できない、もしくは自分でもよくわからない思いを抱えて日々を送っている子もいることでしょう。
子どもの中には、他人の気持ちに人一倍敏感で優しい子がいます。場の空気を読んで行動することができ、目の前の友達に合わせることができます。とても優しくて素敵だなと感じる一方で、疲れた顔をしているその子を見ると心配になります。そういった子に、こちらから多くの言葉で疲れた顔の理由を聞き出そうとしても「大丈夫。」と答えたり、余計に困らせることに繋がってしまうことがあります。
多くの言葉を用いずとも、その子の隣に行き私はあなたのことをちゃんと見てるよという無言のメッセージと共に、一緒に時間を共有することだけが丁度いいときもあります。ただ、隣にいてくれるだけで心が癒やされるということはあると思っています。そして、そんなときにポツリと本音がこぼれ落ちるものです。きっとどんな人であっても、自分のことをわかってほしい、気持ちを理解してほしいということは共通の願いではないかと思うのです。その思いが満たされる体験は、その子にとってなにものにも代えがたい自分自身の財産になり、今後の人生にポジティブな影響を与えることだろうと思います。
僕も、中学生当時に感じていたあの時のなんとも言いがたい不安や悩みをベラベラと話すことは気が引けるけれど、誰かに気持ちをわかってほしかったのかもしれません。