すべてのことはメッセージ

子どもたちと日々活動を共にしていると、「この子はいったい何がしたいんだ!?」「なんでこんなことを言うんだろうか。」「どうしてこんなことをするんだろうか。」と、感じることがあります。

そんなことを言ったら、言われた方は怒るだろうな~。と思って子どもたちのやりとりを見ていると、だいたいがその通りになるのです。けんかに発展したり、けしかけた方が反撃に遭いいやな気持ちをしていたり。

こういったことは、一回するだけでも体力と気力の要る行為のように思えるが、その子はすごい。こういった関わりを毎日のように行います。

ただ、こんな関わりをする子ども同士の関係性について言えば、一概に仲が悪いと言い切れないところがあります。遊びが開始されるときも互いを誘い合い、気づけば二人で熱中して共同作業をしているなんてことも、よく見る光景です。かと思えば1時間後には怒らせるような一言を発して喧嘩しています。

 

どうしてそんなことを言うんだろう、と思ったこともありますが、今はあんまりそんなことは思わなくなってきました。そもそも自分の枠組みでその子を理解しようと思っていたのが間違いで、そのこの中にはそうするだけの充分な理由や目的があるんだろうなと思うように捉え方を変えたからです。

自分の枠組みであなたを理解しようとしたとき、そこには大きな壁が沢山あるような気がします。生育環境の違い、それに伴う価値観の違い、何を大切にしたいかという優先順位の違いなど、百人いれば百通りだけ違いがありそうです。そういったことまで語り合い、やっとあなたの行動を納得することができるというスタンスを子どもに関わる僕が持っていたとするなら、それは子どもたちにとっても大変なことのように思います。きっと、質問攻めの拘束地獄から子どもは逃れることはできないでしょう。

その理解するという勝負のステージからおりて、その子の枠組みを通して起きている出来事を感じようとしたら、なんだか理解しようとしていたときよりもその子のことが身近に感じ、疑問に感じることが少なくなりました。僕自身も穏やかに過ごせるようになった気がします。

 

そして言葉という表現は、低学年ほどその子を理解する上で重要なことではないなと感じています。自分自身の思いを全て言葉に乗せて伝えることなんて、子どもより語彙力のある大人でも難しいことであると思います。そもそも、自分の思いや気持ちを自分自身で正確に理解できているかというのも、怪しいものである気がします。

それでも、自分の気持ちをわかって欲しいと強く願うのが人であると思いますので、子どもたちはなんとか伝えようと努力します。この思いを目の前のあなたにわかって欲しいと思い一生懸命言葉を紡ぎますが、その言葉が拙く表面的な解釈しかされないときに、言葉じゃない方法で伝えようと思うのは自然なことだなと思います。その表現方法が、例えば叩いてみたり追いかけてみたりするのでしょうか。

または、自分の気持ちを正確に表現したときに、それは言葉ではないのかもしれません。本当に、子どもたちの言動はメッセージが強いなと思う日々です。

もっとも、子どもなりのユニークであるときもあると思いますが。

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