ゲームとなんとかスクール
なんとかスクールに問い合わせをしてくれる方に子どもの様子を聞くと、「学校に行かなくなってゲームばっかりしているんです。」という返事が返ってくることが多くあります。
話を聞いていくと、ゲームばかりではなく人との関わりを持ってほしい、できれば体も沢山動かして目一杯友達と遊んでほしいという願いを持っていられる方が多いように思えます。しかし、そう願って子どもに「ゲームばかりしないで。」と伝えても、その場では辞めるかもしれませんが気づいたときにはゲームに戻っているということみたいです。
ゲームというものがどれだけ人を魅了して気軽に刺激を味わうことができるのかがわかるエピソードだなと思います。
なんとかスクールに通う子どもの中にもゲームが好きな子どもはいます。なんとかスクールに来る前は家でゲームばかりしていた子もいます。それでも、なんとかスクールには登校してくれます。
お母さんがおっしゃることには、家でゲームをするという選択肢がなくなったわけではないのに登校することを選んで来てくれるようです。無意識下でゲームでは決して満たすことのできない何かを求めて登校してくるのでしょうか。
理由や目的は子どもによって違うかもしれませんが、なんとかスクールの子ども達を見ていると、子ども達は人との温かな関係性の中で笑い合ったり支え合ったりと人と調和することを心の底で願っていて、それを喜びとしているんだろうなと感じます。
そして、人間関係の中でこそ幸せを感じるというのは子どもだけではなく、我々大人も同じでしょう。
確実に人間関係の中でしか満たせない欲求というのは存在しており、それは人にとってとても重要な要素であるように思います。そして、人間関係の中で他者と調和し、自分を満たすことは決して偶然ではなく、個人の在り方によって決定してくると考えております。
そんな力を育むことができる場として我々の活動は存在していたいと願っています。
ゲームの話に戻りますが、なんとかスクールではゲームを禁止にしました。
ゲームも育ちの場に存在している学校も日本にはたくさん存在しています。その場ではゲームもやりたいことの一つとして認められ、自由に行うことができます。矛盾するように感じるかもしれませんが、僕はこの考え方も理解することができます。なぜなら人の育ちというのは時代や物質など、自身の外側にあるものに依存するものではなく、自身の内側で起こるものだと考えているからです。その場に存在する子に温かい関心が向けられ心が自由であるなら、ゲームの有無にかかわらず、子どもが育つことのできる最低限の環境は揃っていると思います。
ただ、子ども達は本当に望んでゲームをやっているのでしょうか。ゲームの刺激というのは子ども達からすると受動的で、もっと面白くと飽きさせないように誘惑してきます。子ども達はゲームを遊んでいるようで、ゲームに遊ばれているだけではないでしょうか。本当のところはわかりませんが、僕には子ども達が本当に求めているのはゲームのクリアではなく、友達に信じてもらうことや寄り添ってもらえることの方が求めていることであるように思います。そういう僕も、休みの日にはYouTubeで明日には忘れてしまいそうな内容の動画をよく見ています。そういった受動的に与えられる刺激を受ける時間も自分を調整する上で大切な要素なのかもしれませんが。
しかし、なんとかスクールで活動している中で、子どもたちには時間がないのではないかとよく思います。子どもたちがゲームをしていても、愛をもって接することを続けていれば成長の芽は開くのかもしれません。そしてゲームをする中でも、子ども達は互いに支え合い喜び合うことを経験しながら自己理解や他者と調和していけるようになるのかもしれません。
ゲームを認めるということは小学校の6年間、なんとかスクールで過ごす時間をゲームで過ごしても大丈夫だという覚悟が必要です。もちろん、そこまでのことを思って当初はゲームをする子どもたちを見ていたのですが、自分の人生を豊かに生きていくための場であるなんとかスクール中の貴重な時間を使ってすることとしては、あまりにももったいないように感じました。何かを禁止にするというのは、「育つ」ということの真理からはもしかしたら、少し外れるのかもしれませんが、理想ではなく目の前の子どもたちと自分の感覚に素直になってみようと思いました。
2022年12月の今はこう思いますが、変わることもあるかもしれないなとも思います。ただ今は、ゲームではなく直接的な人と人との関わりの中で生まれる数々のドラマが子ども達の心を満たしてくれ、自分の人生を自分の力で歩いて行く力に変換されていくのだと信じています。